しあわせの理由

しあわせの理由 (ハヤカワ文庫SF)

しあわせの理由 (ハヤカワ文庫SF)

今こそ認めよう。グレッグ・イーガンの作品はすばらしい。

グレッグ・イーガン『しあわせの理由』読了。短編集である。イーガン作品では、かつて『宇宙消失』と『万物理論』で挫折した経験があるので、今回はリベンジである。

短編の中には、当たりもあればハズレもあったのだが、当たりが強烈すぎる。

文章が非常に長くなってしまったので、たぶんみんな最後まで読み切れないだろう。だから、これだけは先に言っておく。表題作『しあわせの理由』が最高。こいつのためだけにこの本を買っていい。

適切な愛

愛する夫が事故に遭い、体がもはや再生不能なまでに破壊されてしまった。新しい体ができるまでの間、彼の脳を生かしておかねばならない。そのために、保険会社から妻に提示された方法は・・・。
方法もやばいが、そのやばい方法を選ばざるを得なかった妻の葛藤と闘いがすごい。

闇の中へ

地球上に突如ワームホールが出現する、というおっかない環境でレスキューをする人々の話。物語としては大したこと無いが、ワームホール内の描写がすばらしい。

愛撫

異常な価値観を持った狂人により引き起こされる事件と、それに巻き込まれる刑事の話。いまひとつどう楽しんだものか分からない話だったなぁ?SFというよりミステリ。

道徳的ウィルス学者

神の教えを遵守し、また世の人々に遵守させるべく、医学的な面からのアプローチを試みる学者の話。不貞をはたらいた人間が死ぬウィルスを開発、蔓延させることを試みるのである。思想のゆがみっぷりが笑える。でも、現実にもいるなあ、こういうバカ。オチも良し。

移送夢

ロボットに人間の意識を移し替えるとき、移送先であるコンピュータ上の、意識を構築するソフトウェア・モデルが夢を見る。これを移送夢という。
使い古された、そして禁じ手に数えられる話を、こうもうまく作れるか。これなら許せる。

チェルノブイリの聖母

これ、よくわからない。SFでも無いよね?

ボーダー・ガード

この世界の人類は、人間の意識というか精神活動を「宝石」なるものに移し替えることで、不老不死を獲得している。皆、死や苦痛といった負の感覚から無縁である。しかし、ただ一人、死を知っている人間がいたのである・・・。
量子サッカーなるスポーツの試合から話が始まるのだが、それの屋台骨である物理理論が難しくてよくわからん。中盤以降の哲学的な会話が面白い。

血を分けた姉妹

モンテカルロ病、という病に冒された女性。これにかかってしまうのは遺伝子上の問題で、同じ血を引く妹もやはり同様の病に倒れた。二人には同じ薬が与えられたが、それで一命を取り留めたのは自分のみで、妹は帰らぬ人になってしまった。同じ遺伝子を持ち、同じ薬を飲んだのに、なぜ自分だけが助かったのか?
これはSFというよりサスペンスだな。医学の発展がモラルを超えるとこうなるか。

しあわせの理由

脳腫瘍の影響で、人間をイイ気分にする神経ペプチドが過剰に分泌されるようになった少年。彼は生命の危機に瀕しているにもかかわらず、現状を悔やむことも、嘆き悲しむことも、物理的に不可能な状態に陥る。脳腫瘍は無事取り除いたものの、その副作用で今度は逆に幸せを感じるための受容体が死滅してしまい、喜びを感じることができなくなってしまう。その後、空虚な人生を送ることを強いられた彼は、30歳のときに画期的な治療法に巡り会うのだが・・・。
この話は、怖い。人間は、皆幸せを求めて生きる。人を幸せにするものとは、すなわち充実感、達成感、あらゆる快楽、そして愛という尊い感情、等である。しかし、そうしたもの全ては、脳内物質が見せる幻想に過ぎないのではないか?という、誰もが目を背けたくなる問題に真正面から向き合っている。そうか、これがイーガンの力なのか!納得を通り越して感動したよ、俺は。

『しあわせの理由』だけではなく、イーガンのSFは哲学的な面を持っている。『移送夢』や『ボーダー・ガード』だって、人の精神を他の物質に移し替える、というマネをしている。これはつまり、人間は化学物質や電気信号で動く有機ロボットに過ぎない、という考えを表している。これを否定する材料は、無い。果たして人間という存在の本質は何なのか?という非常に深遠な問いかけがあるのだ。


なるほど、J.P.ホーガンやE.E.スミスが書く、現状を肯定的に描く本でSFを知った俺が、なかなか受け入れられないわけだ。でも、理解した。おそらく、今の俺はイーガンの長編を読める。本当によかった、古本屋に放り込まずに取っておいて!