ケータイ小説を叩く人々は、読書嫌いを作りたいのだろうか?

思い出話

俺はライトノベルSF小説をきっかけに本を読むようになった。しかし、かつて自分の好きなそうした小説たちを「くだらない」と一蹴した男がいた。彼は歴史小説を偏愛する人間だった。いわく、「ここに書いていることは全て本当にあったことだ」。それに比べて、俺が読んでいるような本は作り話ばかりでくだらない、何の役にもたたない、というのだ。

その後、どうなったか。

読書好きになりあらゆるジャンルの本を読むようになった今でも、俺は歴史小説にだけは一切手を出さない。第一印象でマイナスになってしまい、その精神負担を越えてまで読もうという気にならない。歴史小説を愛する彼が、俺が歴史小説を読む機会を遠ざけたのだ。

本題

さて、ケータイ小説の肯定派と否定派が喧々囂々とやりあっている今日この頃。俺も本読みの一人として言及してみようと思う。

ケータイ小説は、それはもうひどいものであると認識されている。「ワンパターン」「稚拙」「文学とは呼べない」「小説を名乗るな」・・・まぁ、これまで多量の本を読んできた目の肥えた読書家のみなさんからすれば、そう言いたくもなるだろう。正直、俺もそう思う。

しかし俺は、そんなケータイ小説でも読書家候補生を育てるのに一役買っていると思っている。ケータイ小説を読んで感動した若者たちは、これをきっかけとして文章を目で追い物語を楽しむことを覚えはじめたであろう。

おそらくこれまで活字にあまり触れてこなかったであろう彼らが、めくるめく読書生活の戸口に立ったのだ。喜ばしいことではないか!ゆくゆくは読書に興味を持って、我々の仲間になっていってくれると嬉しい。

ところが、"本物の小説"とやらを読んでいるらしい読書家たちは、若者たちがすばらしいと思った作品を非難し、貶める。ひどいときには、読者である彼らの人格や知性にすら唾を吐きかける。

さて、若者たちは読書に興味を持つようになるだろうか?"本物の小説"を読んでみたいと思うだろうか?

俺なら読みたいと思わない。自分の感動を理解できないばかりか罵倒までしてくる年寄り連中がありがたがる本など、見るのも嫌だ。1ページもめくることなく存在そのものを否定する。

ケータイ小説叩きは、未来の読書嫌いを増やすことになるのではないか。くだらない似非文学にうつつを抜かしている、と蔑んでみせたところで、彼らはますますケータイ小説の世界に閉じこもり、その外に広がるたくさんのすばらしい本との出会う機会を失ってしまうのであろう。

そんなことをするより、ケータイ小説という表現方法も、それに感動したことも全部アリだと認めて・・・好きになる必要はない、ただ認めればよい・・・、しかし他にもこんな面白い世界があるんだよ、と我々の愛する読書生活に誘うほうが皆幸せになれるのではないか。

ライトノベルという簡単で読みやすい本から徐々に他の本に興味を広げてきた自分と、今ケータイ小説を読んでいる若者達がどうしても重なる。そして、俺が歴史小説に対して抱く嫌悪感と同じ感覚を、彼らが俺と同様の体験を経て小説すべてに対して抱いてしまうようなことになれば、それは実に残念なことだと思うのだ。